Vol.24 : "Devilish Speed" Ferrari126C2
(written on 21.Mar.1998, corrected on 10.Oct.1998)
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 ベンチュリーカー(*注1)とターボエンジンの技術の熟成の中で、大混戦となった'82年シーズン。しかしながら、実質上は、マシンの速さでは一歩抜きん出ていたチームがありました。フェラーリです。

 '79年にジョディー・シェクターとジル・ヴィルヌーブのコンビで華々しいシーズンを過ごしたフェラーリでしたが(第十六回参照)、その翌年'80年は全く同じ布陣ながら二人で8ポイント、コンストラクターズ10位という悲惨な成績に終わっていました。

 その原因は、もはや旧態依然と化していたシャシー技術と、ベンチュリー全盛時代には邪魔物でしかない幅の広い水平対向エンジンにありました。

 フェラーリは以上の二つの弱点を克服すべく、まず、最悪の'80年途中から、そのシーズンを捨てて、水平対向に変わるエンジンの開発を開始します。

 それが、ルノーに続くF-1では第二のターボエンジンでした。
 '77年から参戦したルノーのターボエンジンは、当初は周囲の嘲笑にさらされ、馬鹿にされていましたが、やがてそれを見返すほどの速さを得るに至っていました(第十八回参照)。また、水平対向エンジンとは違い、幅の狭いV6ターボエンジンは、ベンチュリーの形成にも非常に好都合だったのも幸運だったと言えるでしょう。
 そして、F-1伝統のチーム、フェラーリまでもがついにそれに追従する事になったのです。

 しかし、フェラーリはルノーに「追従する」という姿勢ではなく、一挙にルノーを追い抜くことを考えていたようです。

 ターボエンジンは排気ガスのエネルギーを利用してタービンを回し、吸気を圧縮して、つまり大量の空気をエンジンに送り込むことで高出力を得るという仕組みでしたが、排気ガスの流れが遅いうちは十分な出力が得られず、スロットルレスポンスが悪くなる、「ターボラグ」という欠点があり、ルノーも随分と悩まされていました。

 そこでフェラーリはターボエンジンの開発と平行して、コンプレックス過給のエンジンも開発していたのです。

 これは排気ガスの圧力波とエンジンの出力を使って圧縮するという複雑なもので、ターボのスロットルレスポンスの悪さを解決するものでした。
 しかしながら、このコンプレックス過給エンジンは、レースで使うには複雑すぎ、結局実戦を走る事はありませんでした。とは言え、ルノーの二番煎じでは終わらないという意気込みが感じられます。

 また、実際に実戦を走る事になったノーマルなターボエンジンのほうも、ルノーにない特徴がありました。
 具体的に言うと、有効なベンチュリー空間を確保しようと、バンク角を120°に広げて(ルノーは90°)、その間にターボ関係の補器類を納めるという設計になっていたのです。
 ルノーは速さは得たものの、信頼性やシャシーの技術などで壁に打ちあたって苦しんでいただけに、そのルノーを超えようというフェラーリの並々ならぬ意欲が感じられますね。

 しかし、この'81年シーズンの126CKというマシンは、ターボエンジンを投入したとは言え、シャシーのほうは前年までの312Tシリーズを色濃く残す構成になっていました。
 モノコック(*注2)などは細い軽合金のフレームにアルミパネルを張り込むと言った手法で、これは当時最新のカーボンモノコックと比べると、15年は遅れていたと言われています。

 そのため、ハンドリングは劣悪。また、ターボエンジンも非常にターボラグが強く、全く予想のつかないところで爆発的なパワーが出るという、危険きわまりないマシンでした。それでもジル・ヴィルヌーブが2勝を挙げられたのは、彼の超人的なドライビングの賜物であり、だからこそ逆に彼の素晴らしさが際立つ結果になったとも言えましょう。

 そこでこの年、フェラーリはイタリア伝統の技術を捨て、シャシー技術の本場、イギリスの技術を導入する事を決意、ヘスケスやウルフ(第十回参照)などで活躍していたハーベイ・ポストレスウェイトを招聘したのです。

 ポストレスウェイトは'82年シーズン中から126CKの改良にも力を入れ、徐々にその性能がアップしていました。


フェラーリ126C2
 そして'82年(ようやく話が戻ったぁ (^^;!)、ハーベイ・ポストレスウェイトが全面的に設計したアルミハニカムのフルモノコックを持ったフェラーリのターボマシン126C2がデビューします。
 シャシー製作技術ではまだイギリス系チームには劣りはしたものの、前年度にくらべれば遥かに進歩した上、より熟成されたターボエンジンの発生するパワーは強大なものになっており、126C2は「フェラーリ本来の速さ」を持った素晴らしいマシンとなりました。そう、「妖しいほどまでの速さ」を持った...。
 そして、フェラーリはシーズン当初からチャンピオンシップの中心に位置する存在となります。
 ところが、事件が起きます。
 前回触れたように、第4戦サンマリノGPは、FOCA(*注3)系チームがボイコットし、わずか14台の出走で行われたレースでした。

ヴィルヌーブを抜き去って行く
ピローニ
 ルノーがリタイヤし、ライバルが消えた中、フェラーリは悠々と1-2フォーメーションを形成。ここでチームは無用の争いを避けようとチームオーダーを発令。
 ところが、その最終周、2位にいたディディエ・ピローニがそれを破り、チームメート、ジル・ヴィルヌーブを抜き去って優勝してしまったのです。

 当然ヴィルヌーブは激昂しました。ヴィルヌーブにとって、家族同然だと信じていたピローニだからこそ、その怒りはより強いものとなりました。もはやチームメート間の会話は皆無。そしてヴィルヌーブは心に誓いました。「絶対に奴にだけは負けない」と。

 妖しいほどに速いマシン。そして過剰なまでのライバルへの意識。
 サーキット内では僅差の混戦が、外では派手な政治合戦が繰り広げられている裏で、こうして、悲劇への危険な要素は知らぬうちに蓄積されていったのかもしれません。

 そして突然にそれは起こったのです。

 そのサンマリノGPの翌戦、ゾルダーでのベルギーGPの予選。まず、ピローニがトップタイムをマーク。それを見たヴィルヌーブは何がなんでもそれを破ろうと、すぐに出撃。...しかし、二度と彼は戻ってはこなかった。


大クラッシュした
ヴィルヌーブのフェラーリ
 アタックに出たヴィルヌーブの前に、スローダウンしていたヨッヘン・マスのマーチのマシンが現れた時、マスはヴィルヌーブのマシンを避けようとしました。ところが、それより先にヴィルヌーブがその方向へとマシンを振っていた...!
 そして、栄光のマシンとなるはずだったフェラーリ126C2は宙を舞い、地面に叩き付けられた時には車体の前半部分と後半部分で真っ二つに裂けていました。放り出された英雄ヴィルヌーブはここで命を断たれたのです。

 この事故は、もちろん、原因を一つに限定する事はできませんが、ヴィルヌーブの、ピローニに対する過剰なまでのライバル意識が、冷静な判断力を鈍らせていたのは間違いありません。こんな無用なことで英雄の命が奪われたと考えると、残念でなりませんね。

 '98年シーズン中も、開幕戦のマクラーレンや、フェラーリのチームオーダーが非常に話題となりましたが、チームオーダーにはこうした哀しい過去があったのです。

 さて、この事故は当然F-1界に激震を走らせる事になりました。

 当然、その事故の引き金を引いてしまったとも言えるピローニもその一人でした。
 彼はヴィルヌーブの故郷での第8戦カナダGPの予選でポールポジションをとった時のインタビューでは「ジルが生きていたなら、ポールポジションは彼のものだっただろう」と言って突然涙を流したそうです。
 裏切ってしまったとはいえ、そのために誰よりも彼自身が苦しむ事になってしまったのです。


黒煙を上げる
リカルド・パレッティのオゼッラ
 ところがこのカナダGPの決勝では、そのピローニがスタートでエンジンストール。これにオゼッラのリカルド・パレッティが追突し、炎上。ピローニは脱出して、全くの無傷だったものの、マシンに取り残されたパレッティが死亡してしまったのです。

ドイツGP予選中に
大クラッシュしたピローニ

 悲劇はこれだけでは終わりませんでした。
 第12戦ドイツGPの豪雨の予選で、既にチャンピオンポイントのトップに躍り出ていたピローニがトップタイムをたたき出した直後に大クラッシュ。両足の複雑骨折で引退を余儀無くされたのです。

 こうして二人のエースドライバーのドライバー人生を奪ったフェラーリ126C2は、魔性のマシンとなってしまったのです。

 ちなみに、余談ではありますが、この時ピローニと接触したのは、当時新進気鋭の注目若手ドライバーであったルノーのアラン・プロストでした。ピローニと同郷にして親友だったプロストはこの事故に大いにショックを受けてしまいます。
 後年、セナとの対決の中で、雨のグランプリでの弱さを指摘されたプロストですが、それはこの時のピローニとの事故が大きく尾をひいていたのだということですね。

 このように、'82年シーズンは大混戦、政治合戦の中で、なんとも哀しい悲劇が連発したシーズンとなってしまいました。しかし、その一連の事故に、最終的にこの年のコンストラクターズチャンピオンを獲得したフェラーリが絶えず関わっていた事はなんとも皮肉なことです。

 ポストレスウェイトが設計したとはいえ、フェラーリのマシンは確かにイギリス系チームに比べるとシャシーの製造技術は依然として劣ってはいましたが、一連の悲劇をその剛性不足だけのせいにはできません。
 急速に熟成されたベンチュリー、爆発的なターボエンジンのパワー、こうした要素の中で、速さと安全性のバランスが大きく崩れた結果であると考えるべきでしょう。

 こうして急速にベンチュリーカー禁止の声が高まり、急遽、翌年から禁止されることになっていくわけです。

 結局この年は終盤第14戦で優勝し波に乗ったウィリアムズのケケ・ロズベルグがわずかにピローニのポイントを上回り、1勝ながらチャンピオンを獲得。コンストラクターは、交代のドライバーを走らせてフェラーリが獲得。
 しかしながら、悲劇さえなければ、両タイトルともフェラーリのものとなったでありましょう。だからこそ余計にサンマリノGPでの事件が残念です。

 さて、二回に渡ってお送りした'82年特集はいかがだったでしょうか?結局、大混戦という部分にはあまり触れられなかったのは残念ですが、F-1にとって大きな転換期であった事だけでも伝わったでしょうか?

 この悲劇から変革というパターンは、セナの亡くなった'94年シーズンにも通じるところを感じる方も多いでしょう。悲劇の歴史は繰り返されてしまったのです。 
 そう考えると、溝付きタイヤであるとか、全幅削減と言ったマシンのスピードを落とすレギュレーションも、もう少し納得できるかもしれませんね。

*注1:


ウィングの周りの空気の流れ


ベンチュリーの原理

 ウィングはその上面と下面に空気が流れ、飛行機の場合は上面、F-1の場合は下面の空気の流速を上げて負圧を作り、その方向に向けた力(揚力/ダウンフォース)を発生させるものである。

 それに対し、ベンチュリーは凸状の構造物が向かい合ったもので、その間を空気が通り抜けることで流速が上がり、そこに負圧が発生するものであり、ベンチュリー・カーの場合はその片方の凸状構造は路面になっているわけである(この場合、地面とマシンの間に力が発生するのでその力をグランドエフェクトとも呼ぶ)。

 ベンチュリーの場合は負圧になる部分のみが存在すれば良く、ウィングのように上面/下面の空気を考慮する必要がない。

*注2:


マクラーレンMP4の
軽量かつ高剛性な
カーボンファイバーモノコック

 モノコックはマシンの背骨とも言え、ドライバーや燃料タンクを収める一方、 後部にエンジンが連結されるなど、非常に重要な部分である。ここの強度によってもマシンの操縦性能は大きく変わる。
 もともとは「一つの殻」を意味する。力を外皮全体で受け止めるため、軽量で丈夫な構造が可能となったというわけである。

 ベンチュリーカーの時代になって、細くて剛性の高いモノコックが求められるようになり、'81年にはマクラーレンがカーボンファイバーモノコックを導入し た。

*注3:

 FOCAとはFormula-One Constructors Association=F1製造者協会の略であり、イギリスのコンストラクターズを中心に結成された。
 今ではF-1の開催権や放映権などを牛耳っており、大きな力を持っている。
 結成当初から、当時ブラバムのオーナーだったバーニー・エクレストンが取り仕切っている。

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