Vol.21 : "The Formation of Empire"
Vol.21
: McLaren=Project4
(written on 26.Dec.1997, corrected on 09.Oct.1998)
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 今回のテーマは前回にも少々名前の出てきたマクラーレンMP4についてです。

 マクラーレンはブルース・マクラーレンというドライバーが'66年に結成したチームであり、'70年代半ばにはM23という名車(第四回参照)とエマーソン・フィッティパルディ、ジェームス・ハントらの一流ドライバー、そしてマルボロの豊富なスポンサーマネーによって黄金期をほこっていました。

 しかし、その後ベンチュリーカー(*注1)M29が失敗作になってしまい(第十六回参照)、中段に埋もれる存在となっていたのです。有望な新人であるアラン・プロストの手をもってしても入賞がやっとという状態だったのです。

 一方、マクラーレンのメカニックであるロン・デニスはマクラーレンとは別に「プロジェクト4」なるチームを結成して各カテゴリーで成功を収めていました。そしてやがてF-1への参戦も考え始めるようになります。これに目をつけたのが、マクラーレンの惨憺たる成績に業を煮やしていたマルボロでした。マルボロからの強い要請によって'80年9月、マクラーレンとプロジェクト4は合併し、「マクラーレン・インターナショナル」としての活動を開始します。
 デニスはデザイン部門の強化、そしてマネージメントサイドの改革を徹底的に進めました。これが現在の「超プロ集団マクラーレン」の礎となっていくわけです。

 そしてこの時加入したのが、以前名車M23の開発にも関わっていた、完璧主義者を自負するジョン・バーナード。
 以前のマクラーレンの、「マシンは複数名のデザイナーの共作」という方針に嫌気がさしてチームを去ったバーナードは、今度は全て自分の思い通りになるチーフデザイナーとして再びチームに戻ってきたわけです。

 しかし、有望で頼りになるはずだったプロストは、デニス、バーナードの必死の説得の甲斐なく、彼の母国であるフランスのルノーによって引き抜かれてしまいます。

 しかしながら、バーナードは着々とニューマシンの開発を進めていました。彼の頭にあったのは、オールカーボンファイバーのモノコック(*注2)を中心とし、フォードDFVを搭載したまとまりのあるデザインでした。一人のデザイナーがマシン全体の流れを考えて始めてできるまとまりのあるデザイン。


マクラーレンMP4の
カーボンファイバーモノコック
 前回のロータス88の時にも触れたように、非常に軽量で剛性の高かったカーボンファイバーのモノコックは、現在では全てのチームが当然のように採用しています。
 しかし、当時は繊維の方向によって剛性が変わったカーボンファイバーには疑問の声も多く、また、大変高価だったため、強度を上げるために一部使用していたチームはありましたが、フルカーボンモノコックを採用するチームはありませんでした。
 バーナードも英国内の関連企業にそのプロジェクトへの協力を申し出たものの、乗り気な企業は無く、決して順調にいっていたわけではないようです。
 しかし、後にマクラーレンでのバーナードの地位を継ぐことになるスティーブ・ニコルスの紹介でアメリカのハーキュリーズ社と契約したバーナードは、そこで製作されたカーボンモノコックを中心にしてMP4/1を完成させ、実戦にデビューさせます。

マクラーレンMP4/1

 このMP4/1は定番フォードDFVエンジンであったし、F-1初のカーボンモノコックだという以外はごく普通のベンチュリーカーと言っていいほど、(ロータス88とは違って)特に革命的なことをやっていたわけではありません。

 しかし、先述のように、完璧主義者バーナードの思想に貫かれたマシンは非常に丁寧かつ完成度が高くまとまりのあるデザインで、当時のマシン群の中でも一線を画す美しいものでした。

 その成績はと言うと、'81年はジョン・ワトソンが1勝を含む4回の表彰台と、まずまずの成績。しかしアンドレア・デ・チェザリスは6位入賞一回のみと低迷。
 ところが、'82年にマクラーレンが用意してきたコマは誰もがあっと驚くドライバーでした。なんと、フェラーリで二度のワールドチャンピオンに輝き、既に引退していたニキ・ラウダを説き伏せ、復帰させてしまったのです。
 そして二年目となるMP4/1で戦ったこの'82年はこのラウダとワトソンが2勝ずつと、少しずつMP4/1は実力を発揮し始めたのです。

 ですが、これはほんの序章にすぎなかったのです。バーナードが設計したMP4/1のカーボンモノコックは大きな設計変更も無く'87年のMP4/3まで引き継がれ、31勝を稼ぎ出してしまうのですから。ま、その続きはまた後日に (^^;。

 ただ、MP4/1のモノコックはアルミハニカムとカーボンファイバーのサンドイッチ構造でした。これはロータス88が採用してきたようなノーメックスハニカムとカーボンファイバー&ケブラーのサンドイッチ構造という先進的なものだったのに比べると見劣りします。
 さらには、コクピットの開口部も非常に大きく開いており、果たして十分な強度があったかも疑問で、実際'87年など、晩期には随分とそのあたりが問題になっていたようです。

 とは言え、マクラーレンのカーボンモノコックはロータスとは違い、型にカーボン生地を張り込んで焼く一体成形であり、現在の手法と全く同じでした。

 なにより、F-1に初めてカーボンファイバーを持ち込んだ意義は極めて大きいと言えます。それは安全性の面でも、技術面でももちろんですが、非常に高価だったカーボンファイバーを使用するには、巨額の資金を必要としました。カーボンモノコックはターボエンジンと相まって、F-1をビッグビジネスの場へと変えていった張本人とも言えるからです。そしてそのマクラーレンがやがて「帝国」と呼ばれるほどの強さを発揮していくのは決して偶然ではないと言えるでしょう。

*注1:


ウィングの周りの空気の流れ


ベンチュリーの原理

 ウィングはその上面と下面に空気が流れ、飛行機の場合は上面、F-1の場合は下面の空気の流速を上げて負圧を作り、その方向に向けた力(揚力/ダウンフォース)を発生させるものである。

 それに対し、ベンチュリーは凸状の構造物が向かい合ったもので、その間を空気が通り抜けることで流速が上がり、そこに負圧が発生するものであり、ベンチュリー・カーの場合はその片方の凸状構造は路面になっているわけである(この場合、地面とマシンの間に力が発生するのでその力をグランドエフェクトとも呼ぶ)。

 ベンチュリーの場合は負圧になる部分のみが存在すれば良く、ウィングのように上面/下面の空気を考慮する必要がない。

*注2:


ウィリアムズFW07の
アルミハニカムの
強固なモノコック

 モノコックはマシンの背骨とも言え、ドライバーや燃料タンクを収める一方、後部にエンジンが連結されるなど、非常に重要な部分である。
 もともとは「一つの殻」を意味する。力を外皮全体で受け止めるため、軽量で丈夫な構造が可能となったというわけである。

 ベンチュリーカーにおいては、ベンチュリーのスペースを少しでも広くとるためにできる限り細く、また、強大なダウンフォースを受けても軋まない強固なモノコックが必須であった。

 この時代は軽合金のフレームにアルミパネルを張り付ける手法が一般的だったが、一部で、非常に高価であるがアルミよりも遥かに軽く丈夫なカーボンファイバーパネルを補強に使用するチームもあった。
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