Vol.20:
"The Tragic Revolutionary" Lotus88
(written on 14.Dec.1997, corrected on 09.Oct.1998) |
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'81年をもって導入された車高6cm規制により、ベンチュリー(*注1)の効果は激減されるはずでした。しかし、その規制で固定式スカート(*注2)になってしまったとは言え、ゴードン・マーレイの持ち出したハイドロニューマチックサスペンションによって、前年度とほとんど変わらないダウンフォースを得るほどになってしまいました(前回参照)。 そのため、相変わらず姿勢変化に敏感なベンチュリーの要求により、マシンのサスペンション(*注3)はガチガチに堅いままで、サス本来の働きは皆無に等しい状態で、ドライバーには非常に厳しい車である状態は変わりありませんでした。そしてそれはベンチュリーカーの宿命であり、ベンチュリーカーが完全に廃止されるまでは、仕方のないことだと思われていました。 しかし、この'81年初頭、ハイドロニューマチックサスでもなく、前年度と同じような密閉されたベンチュリーを実現し、それどころか、ベンチュリーカーの壁さえ撃ち破ってしまうような革命的なマシンを開発して来たチームがありました。
では、'81年の開幕第2戦に持ち込まれたこの「ロータス88」(及び、そのプロトタイプであるロータス86)というマシンとは一体どんなマシンだったのでしょう? ロータス88は「ツインシャシー」と呼ばれました。
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ロータス88は端的に言うと、メインの(メカニカルな)シャシーのサスとは別に空力シャシーが存在したのです。それをメインシャシーのサスペンションアームに小形のスプリングダンパーを介して結合することでダウンフォースを直接タイヤだけに伝えることにしたわけです。
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まず、ツインシャシーもブラバムのハイドロニューマチックサスと同様、静止状態では空力シャシーは小形のスプリングダンパーによって6cm以上の車高を保っているものの、ダウンフォースが効いてくるとカウルが沈みこんで来てスカートが接地し、最適なベンチュリー空間を作るというものでした。 しかし、これはツインシャシーの利点のごくごく一面でしかありませんでした。いや、"おまけ"みたいなものだとさえ言ってしまいましょう。 そもそも、ロータス88の開発動機は「空力荷重、すなわちダウンフォースを車体本体から切り離す」ことにありました。 これまでのベンチュリーカーは姿勢変化に敏感なベンチュリーにあわせるために、マシンの挙動を極力抑えるようにサスペンションはガチガチに堅くなっていた、と言いました。 しかし、ツインシャシーならば、ベンチュリーを含む、ダウンフォースを発生する部品は小形のスプリングダンパーによって直接タイヤにダウンフォースを伝え、ドライバーやサスペンションなどの足周り部品を含む基本シャシーとは分離していたので、基本シャシーは空力の事を考えることなく、路面の凹凸や衝撃を吸収するサスペンション本来のセッティングを施すことができたのです!
ロータス88の先進性はツインシャシーだけではありませんでした。 '81年3月6日に、ロン・デニスのプロジェクト4と合併したマクラーレンが、ジョン・バーナードによるF-1初のフルカーボンモノコック(*注4)を採用したマシンMP4を発表していましたが、そのわずか2日後に発表されたこのロータス88も、実はカーボンファイバーモノコックを採用していたのです。 カーボンファイバーモノコックについてはまた次回詳しく取り上げますが、もはや現在のF-1のスタンダードとなった、軽量で高剛性のカーボンファイバーをモノコックに使用しようという発想は、ジョン・バーナードだけのものではなく、しっかりとロータスも採用していたことを覚えておいて欲しいと思います。
ただ、一体整形であったマクラーレンの方式に比べ、一枚のカーボンファイバーシートをアルミのバルクヘッドの周りに畳み込んで行くロータスの方式は形状が単純なものに限られ、一体整形の技術が向上するに従って時代遅れになっていきます。
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さて、ここまでその先進性と利点を長々と述べてきたこのロータス88なのですが、早速'81年の第2戦のロングビーチ(アメリカ西)GPに持ち込まれて一旦は車検をパスし、プラクティスを走りました。
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チャップマンも空力的付加物の可動を禁止するレギュレーションに関しては、88の問題になるであろうことは最初からわかっていました。それを出走させるにはそれなりの主張があったのです。それが実は「ツイン・シャシー」という名称にまで現れているのです。 まずは空力部品の可動を禁止する条項を見てみましょう。 『空力的な効果を生じるいかなる部品も車体のバネ上に固定されなくてはならない。』つまり空力に関係するウィングやベンチュリーは車体のバネ上、つまりサスペンションを介して支えられている車体の部分=シャシーに固定されてなければならないということです。 ここでもう一度ロータス88を見てみましょう。空力カウルは「バネを介して」基本シャシーのサスペンションアームに結合されています。
ロングビーチで出走を禁止された後も、チャップマンは引き下がりませんでした。F-1に技術革新の場を残すために必死で訴え抵抗し、続くブラジル、アルゼンチン、そして中盤第10戦、地元のイギリスGPにも88を持ち込んだのですが、結局出走は認められませんでした。こうして稀代の革命マシン、ロータス88は、結局一度も実戦を走ることなく、歴史の狭間に埋もれていくことになってしまったのです。 ツインシャシーは一般的に、例えばブラバムBT46B"ファンカー"(第十三回参照)などと並んで、問題作として捉えられがちです。 しかし、これまで述べてきたチャップマンの発想は、なんて先進的なんでしょうか?その果実であるロータス88は決して問題作などではなく、ベンチュリーカーの第三世代(*注5)、いや、それどころか「ベンチュリーカー」とは独立した「ツインシャシー」という新しい枠組みを作ってしまえるほど、技術的に意義のあったマシンではないかと思います。ハイドロニューマチックサスのような付け焼き刃的小技ではない、本質的なF-1の進化の姿があったとさえ言って良いと思います。
F-1界に幾つもの革命をひき起こしてきたチャップマンは、このツインシャシーの禁止によって、F-1に対する情熱を失い、以降はウルトラライトプレーンの開発に熱中することになります。そして'82年12月16日、F-1初のアクティブサスペンションを搭載したロータス92の初テスト当日の朝に、心臓発作で他界してしまったのです。
最後はかなり感傷的な文章になってしまいましたが、F-1界最大にして最後の技術革新派コーリン・チャップマンが最後に残した革命マシン、ロータス88の偉大さがわかっていただけたでしょうか?
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