Vol.28 : The Secret Weapon of Vol.28 : the First McLaren Empire (written on 2.Jun.1998, corrected on 10.Oct.1998) | |
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フラットボトム規制(*注1)元年、'83年シーズンを制したのは、あっさりとグランドエフェクトを捨てたゴードン・マーレイがデザインした"アロウシェイプ"ブラバムBT52でした。 しかし前回、前々回と見てきたように、フラットボトム規制下でもベンチュリー効果を得られる「ディフューザ(*注2)」というデバイスが考案され、急速に普及しつつありました。 |
迎えた'84年、"アロウシェイプ"は一年にして早くも時代遅れのデザインになっていきます。つまり、ディフューザでベンチュリー効果を得られることから、抵抗を減らすためにサイドポンツーン(*注3)を極力短くする必要性がなくなり、それよりも、もっとラジエターなどの配置をより効率の良い配置にした方がエンジンなどに対する負担が減り、またマシンのバランス的にも良くなるからです。 そんな中、'84年、もっとも意欲的なマシンを製作してきたのがマクラーレンのジョン・バーナードでした。バーナードは第二十一回でも触れたように、F-1で初めてのカーボンモノコック(*注4)を投入していましたが、'83年にも他のマシンとは一線を画したスマートなマシンを作っていました。 | |
というわけで、まずはマクラーレンの'83年のマシンの話から参りましょう。 そのマシンMP4/1Bはサイドポンツーンが上から見るとリアタイヤの前でスムースにくびれて後端で絞られていました。それがコーラ瓶のような形状だったので「コークボトルテール」と呼ばれました。 その狙いは、やはりベンチュリ−効果にありました。 ディフューザはマシンの底に負圧を発生させてダウンフォースを得るわけですが、空気を拡散(ディフューズ)するため、空気の流速そのものは落ちてしまうのでした。 そこでバーナードはマシンの側面を流れる空気に着目しました。サイドポンツーンの横を流れてきた空気は流速が高まっているのにも関わらず、これまでのマシンではその空気はリアタイヤにぶち当たり、大きな抵抗だけを残すのみでした。 | |
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しかし、この空気の抜け道を作り、しかも、ディフューザの上に流速を保ったまま導いてやれば、ディフューザの下側の空気(つまり、ダウンフォースを発生させる空気)を引き抜いて、より負圧を強くし、その効果を上げることができるのではないか? こうしてリアタイヤの前でくびれたコークボトルテールの美しいサイドポンツーンが生まれたわけです。 |
'84年、バーナードはこのコークボトルをさらに洗練させ、タイヤにぶちあたって、圧力の高まった空気の力をより利用できる形状にしてきました。
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しかし、そのMP4/2の秘密兵器はコークボトルだけではありませんでした。 なんと言ってもTAGの資金でポルシェが開発したV6ターボエンジンを搭載したことが最大の特徴だと言えます。 |
'77年にルノーが投入してから年々力をつけ、'83年にはとうとう勝ち星でNA(自然吸気)エンジンを上回ったターボエンジンは、勝つためには必須のものとなってきていました。先駆者ルノー、フェラーリ、ブラバムBMWらに続き、マクラーレン、ウィリアムズらも'83年の途中にようやく、それぞれTAGポルシェ、ホンダを獲得したところでした。 | |
しかし、バーナードはただタ−ボエンジンを搭載するだけでは先駆者達には勝てないと判断し、新しいコンセプトを持ち出します。 それまでのシャーシ開発というのは用意できたエンジンなどのパ−ツの中でどれだけ良いパッケージができるか、ということに頭を悩ますというものでした。 ところが、バーナードはこれからはマシン全体をシャシー開発者が見渡して設計する時代であると考え、ポルシェ側に開発段階からサイズ、重心や補記類の配置、事細かに注文をつけたのです。(それはターボのタービンの回転する方向にまで及んだそうです (^^;;;;;;) | |
こうして非常に効率の良い配置を実現したターボエンジンによって、コークボトルテールが可能になったわけです。他のチームはマクラーレンを模倣してコークボトルを採用したくても、エンジンの都合でなかなか理想的な配置が不可能だったのです。 それまでのエンジンは、パワーが出るだとか、ドライバビリティがいいだとか、エンジン単体としての性能を追求されて製作されていました。しかし、このバーナードの考え方はそれを根本から覆すものであり、そしてそれは現在にでも通用する非常に先進的な思想でした。 | |
この年のマクラーレンのドライバーラインナップはフェラーリで二回のチャンピオンに輝き引退、しかしマクラーレン側の説得により復帰したニキ・ラウダと、前年度、ルノーで最終戦までチャンピオンを争った若手エース、アラン・プロストでした。 バーナードによってエンジンまで視野に入れ、シャシ−全体のバランスを考えて製作されたシャシーに、トップクラスの出力を誇るエンジン。 蓋を空けてみればプロストが開幕戦にいきなり優勝。そしてその後もプロストとラウダが交互に優勝を重ね、終わってみればなんと16戦12勝という圧倒的な強さをみせつけてコンストラクターズチャンピオンを勝ち取ったのです。 | |
ドライバーズチャンピオンは...。 予選でも常に上位に進出し、勝利数も7のプロスト。2ケタグリットが4回もあり、勝利数は5に留まったラウダ。リタイヤ数も同じ。しかし、驚くなかれ、チャンピオンはわずかに0.5ポイント差でラウダが勝ち取ったのです!! '76年フェラーリで起こした炎上事故以来、冷徹で計算され尽くされた走りに徹するようになったラウダは、この'84年もその走りに徹し、速さで圧倒するプロストを巧さで翻弄し、したたかに、したたかにポイントを加算していったのです。 | |
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そして予選で11番グリッドに沈んだ決戦、最終戦のポルトガルGPの決勝だけは、激しいアグレッシブな走りを解放し、プロストに続く2位にまで駆け上がり、若いプロストを下してチャンピオンに輝いたのです。 それまで若さと速さがウリであったプロストが「プロフェッサー(教授)」と呼ばれるようなクールな走りに変わっていったのは、この年のラウダの影響が非常に大きいわけですね。 |
さて、マシンの話に戻りますと、このようにマクラーレンが圧勝をおさめたことにより、レギュレーション変更からわずかに2年で「マクラーレンMP4/2」という一つの大きな収束点が設定されてしまったことになります。 ディフューザとコークボトルにより、ベンチュリー効果は取り戻されました。さらに、高出力でありながらも、マシン全体のパッケージを考えたエンジン。 | |
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ウィングはその上面と下面に空気が流れ、飛行機の場合は上面、F-1の場合は下面の空気の流速を上げて負圧を作り、その方向に向けた力(揚力/ダウンフォース)を発生させるものである。 それに対し、ベンチュリーは凸状の構造物が向かい合ったもので、その間を空気が通り抜けることで流速が上がり、そこに負圧が発生するものであり、ベンチュリー・カーの場合はその片方の凸状構造は路面になっているわけである(この場合、地面とマシンの間に力が発生するのでその力をグランドエフェクトとも呼ぶ)。 ベンチュリーの場合は負圧になる部分のみが存在すれば良く、ウィングのように上面/下面の空気を考慮する必要がない。 |
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モノコックはマシンの背骨とも言え、ドライバーや燃料タンクを収める一方、
後部にエンジンが連結されるなど、非常に重要な部分である。ここの強度によってもマシンの操縦性能は大きく変わる。 ベンチュリーカーの時代になって、細くて剛性の高いモノコックが求められるようになり、'81年にはマクラーレンがカーボンファイバーモノコックをF-1で初めて導入し た。 |