1.モンツァ コースレビュー
モンツァ...情念の森。ここは他のサーキットとはまるで違った異常な雰囲気に包まれたサーキットだ。深い森に抱かれたこのサーキットは、赤い悪魔に魅入られた人々の坩堝(るつぼ)である。
1950年、F-1に「世界選手権」が冠せられてから、1980年を除き、必ず毎年グランプリが行われてきた唯一のサーキットである。そして、'50年から参戦を続ける唯一のチームであり、F-1の歴史を築いてきた存在であるフェラーリの地元サーキットとして、その戦いぶりをずっと見守ってきた伝説的サーキットである。
1922年に完成したモンツァは、現在のレイアウトとほぼ同様のロードコースと、オーバルコースがホームストレートで接している「ツインリング」となっていた。ホームストレートでレーンチェンジをすることで、1周10kmというロングコースとなっていたのである。
だが安全性が問われ、やがてオーバルコースは閉鎖し、ロードコースが残った。それでも、タイトなコーナーが皆無の凄まじいスリップストリーム合戦が繰り広げられるハイスピードコースだった。5位までが0.61秒差でゴールになだれ込み、マーチのロニー・ペテルソンを0.01秒差抑えたBRMのピーター・ゲシンが優勝した'71年のレースは最小僅差レースとして有名である。
以降は安全性の観点から、第一シケイン「グッドイヤー」、第二シケイン「ロッジア」、第三シケイン「アスカーリ」が設置され、かつてほどの高速バトルは見られなくなったが、それでも、「グランデ」、「レズモ」、そして最終コーナー「パラボリカ」といったF-1ならではの高速コーナーの迫力は失われたわけではない。依然として、各マシンには、非常に薄いウィングを始めとした超高速セッティングが施される。
なお、今年はこの「グッドイヤー」と「ロッジア」に改修が加えられた。どちらも、これまでよりもタイトなレイアウトに変化した。
2.イタリアGPヒストリー 〜 '78年モンツァ
* * * モンツァ最多勝、ペテルソン * * *
この高速コースで最多となる3勝を挙げているのは、ファンジオ、モス、プロストといったグレートドライバー達だ。
...そしてもうひとり。豪快にマシンを振り回すドライビングスタイルで多くのファンを魅了したスウェディッシュ、ロニー・ペテルソンである。
マーチからデビューしたペテルソンは、ロータスに移籍して一挙にその才能を開花させ、このモンツァでも輝かしい勝利を挙げた。だが、徐々に低下しつつあったロータスの戦闘力に愛想を尽かし、'76年にチームを出たペテルソンはマーチに戻り、翌年はティレルの六輪車P34に乗った。
しかし、それでも成績が上がらなかったペテルソンは、マリオ・アンドレッティのナンバー2扱いを承知で、ベンチュリーカーで息を吹き返したロータスに戻る決意を固めた。
その'78年。
真の意味での初のベンチュリーカーと言えるロータス79を完成させたチームは、最強の力を発揮した。ペテルソンはチームリーダー、アンドレッティを越える速さを見せながらも、彼のナンバー2としてサポート役を忠実に遂行した。
「今年耐えて完璧に仕事を果たせば来年、自由に戦える契約を勝ち取れるはずだ」...彼を支え続けたのはそういう思いだ。
チャンピオン争いがロータスの二人に絞られた第14戦のモンツァ。
既にチームのタイトルを決めていたロータスはここで見慣れたアンドレッティ-ペテルソンの1-2でアンドレッティのドライバーズタイトルも決定するという青写真を描いていただろう。
だがそれは予選から早くも崩れた。クラッシュしたペテルソンは79のマシンを失い、決勝は旧型の78で臨まざるを得なくなったのだ。だがそれは、悲劇の序曲に過ぎなかった。
* * * 死のグリーンシグナル * * *
迎えた決勝。ポールのアンドレッティがグリッドについてスタートを待つ。ペテルソンも5番グリッドにつく。
しかし、ここでオフィシャルが重大なミスを犯す。まだ後方のマシンがグリッドについていないにも関わらず、グリーンシグナルを点灯させてしまったのだ。
アンドレッティらグリッド上位は無事に1コーナーを抜けていく。
しかし、スタートを失敗したペテルソンは、スピードに乗ったまま加速した後方のマシンによって大混乱となった中団グループに瞬く間に飲み込まれた。
そして1コーナー。アロウズのリカルド・パトレーゼとマクラーレンのジェームス・ハントが接触し、弾かれたハントはペテルソンにヒットした。ガードレールに激突したペテルソンのマシンに、今度はビットリオ・ブランビッラ駆るサーティースが突っ込んでしまった。
ペテルソンのロータス78が、火を吹いた。
ハントと、クレイ・レガッツォーニ、パトリック・ドゥパイエらがペテルソンを救出するべく、炎に飛び込んでいく。コースマーシャル達が駆け付け、消火剤をまいた。ハントらはペテルソンを炎から引きずり出すことに成功した。
ペテルソンとブランビッラは病院に運ばれて治療を受けることになった。サーキットに届いた一報は「ペテルソンは両足骨折で命に別状はない」というものだった。
しかし、サーキットでは混乱が続いた。再スタートのためのウォームアップ走行中に、ウルフのジョディ・シェクターがクラッシュしてガードレールを壊し、再スタートをするかどうか、ドライバー達とオフィシャルの間で一悶着あったからだ。
ようやく午後6時に再スタートを迎える。しかし、アンドレッティとヴィルヌーブがフライングを犯した。そのため、彼らには1分のペナルティが課せられたが、レースの最後まで、オフィシャルからその事実を知らされることはなかった。
結局この混乱続きのレースはブラバムのニキ・ラウダが優勝した。しかし、この混乱のレースに優勝した喜びはなく、彼は表彰も受けぬままサーキットを去った。混乱のモンツァのレースが終わった。
しかしその翌朝、事態は急変する。ペテルソンの両足骨折の手術中、ミスで骨髄が血管に入り、彼が死亡してしまったのだ。
ロニー・ペテルソン、享年34歳。華麗な走りでチャンピオンを目指したヒーローは、それを果たすことなく、実に残念な形で命を落とした。
もしもペテルソンのマシンがより強固なモノコックを持ったロータス79だったのなら...。もしも正常にスタートがきられていたのなら...。もしも医療事故が起こらなかったのなら...。しかし、そんなことをいくら言ってもペテルソンは決して戻ってはこない。
なお、「モンツァ・ゴリラ」と呼ばれたブランビッラの方は、頭に強いダメージを受けながら、根気強いリハビリを続け、一年後にレースに復帰した。
* * * 全ての責任をかぶせられた若武者 * * *
スタート直後の多重クラッシュを招いたのは、紛れもなくオフィシャルのミスである。
しかし、当時この事故は一番最初にハントと接触したパトレーゼに責任があったとされた。なぜなら、彼は非常にアグレッシブで、時にはルールを逸脱するドライバーと見られていたからだ。同業であるドライバー達にまで集中的に批判されたパトレーゼは1戦の出場停止を受けた上、「危険なドライバー」のレッテルを貼られてしまったのである。
しかし、彼は辛抱強くそれを耐えぬき、F-1で走り続けた。そして長い時間かけてそのレッテルを返上し、史上最多出走記録を打ち立てたのである。
3.レース・レビュー
* * * 予選・序盤戦 〜 マーシャルの命を奪った大クラッシュ * * *
これまでメルセデスに対し、常にエンジンパワーでは遅れをとってきたフェラーリ。しかし、この地元GPでは新しいスペックのエンジンを投入し、最初のセッションから完全に主導権を握り、最終的には予選1-2を達成した。
同じように、参戦200戦目を迎えたホンダもニュースペックを投入し、ジャックが4強を崩し、4番グリッドを獲得してみせた。
対照的に、マクラーレン勢は3, 5位に留まった。ここのところ見せている驚異的な決勝での速さは、ここでは見られるのか?
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