1.カナダGPコースレビュー&ヒストリー
* * * ジル・ヴィルヌーブサーキット * * *
カナダGPが行われたジル・ヴィルヌーブサーキットは、万国博覧会のために造られた、セントローレンス川にある人口島の公園の外周道路を利用している。
そのため、パーマネントサーキットではなく、グリップなども低い。また、コンクリートウォールとの距離が近く、クラッシュしたマシンの撤去のために赤旗やセーフティーカーが導入される確率が非常に高い。
今年それがなかったのは意外ですらあった。
レイアウト的には小さなコーナーをストレートで結んだストップアンドゴーサーキットで、ブレーキに非常に厳しく、またエンジンの実力が試される。
1.5kmに及ぶバックストレート(オリンピックローイングストリップ)の後の最終のシケインは、パッシングのチャンスはあるが、非常にタイトで、昨年などはシューマッハ、ヴィルヌーブ、ヒルと、3人のチャンピオンがコンクリートウォールの餌食になった。
だが、ここでも今年は一人もクラッシュしなかった。
1コーナーもスタートラインからの距離が短く、スタート直後には毎年何台かのマシンがクラッシュしていたが、これも今年は無く、全体的に、アクシデントが比較的少ない、例年よりも落ち着いた一戦であったと言えるだろう。
* * * ジル・ヴィルヌーブの記憶 * * *
このサーキットでは、やはり伝説のヒーロー、ジル・ヴィルヌーブの記憶抜きには語ることはできない。
ここモントリオールで初めてF-1が開催されたのは'78年のことである。ロータスがベンチュリーカー79を投入し、猛威をふるった年である。しかし、前年度にニキ・ラウダの代役としてフェラーリに加入したジルは、当初は荒削りでクラッシュも多く、起用を疑問視する声も多かったが、シーズンを通してメキメキと実力をつけ、デビューから1年足らずながら、この地元カナダで劇的な初優勝を飾る。
これが、ヒーロー誕生の瞬間であった。
翌'79年はフェラーリ絶好調の年。
ジルはジョディ・シェクターに続くランキング2位を得たが、'80年、'81年はシャシー技術の遅れから大苦戦を強いられる。
'82年、ようやく勝てるマシンを得たジルはしかし、ゾルダーでのベルギーGP予選で、チームメートのディディエ・ピローニとの確執を残したまま地元カナダGPを迎えることなく事故でこの世を去ってしまった。
そしてやってきた、ヒーロー亡き'82年のカナダGP。サーキットは"ジル・ヴィルヌーブ"の名が冠せられた。
ポールポジションを獲得したのは、そのピローニだった。
その予選後の記者会見でピローニは突如、
「もしジルが生きていたなら、この座を得ていたのは彼だっただろう。」
と言って泣き崩れた。
サンマリノGPでチームオーダーを無視し、ジルを裏切ってしまったピローニ。まるでファミリーのようであった彼らの友情も終焉し、そして間もなくジルは逝ってしまったわけであるが、それによって最も心を痛めていたのも、ピローニ自身であったのだ。
だがその決勝、皮肉にもその彼が事故に巻き込まれる。スタートでストールした彼に、新人のリカルド・パレッティが激しく追突し、炎上。脱出したピローニには怪我もなく済んだが、パレッティは死亡。
この年グランプリが出してしまった二人目の死者である。
ここからは余談になるが、この後ピローニにはさらに、ジルの呪いがごとく大きな事故が起こってしまうのである。
ついにこの年のランキングトップに踊り出ていたドイツGPの予選。豪雨の中でトップタイムをたたき出したピローニはその直後、同郷の親友アラン・プロストに追突し、大クラッシュ。
両足を複雑骨折した彼のドライバー生命はここで途絶え、チャンピオンの座もわずか3ポイント差でケケ・ロズベルグに奪われていった。
* * * なぜか多い遅咲き初優勝 * * *
さて、このグランプリでは、混乱の中で遅咲きの初優勝が生まれた例が二度もある。'89年95戦目のブーツェン、'95年91戦目のアレジだ。ともに、終盤にトップのドライバー...セナがエンジントラブル、シューマッハがギヤトラブルに見舞われてリタイヤもしくは後退し、得られた勝利だ。混乱の多いモントリオールだからこそ、こうした事態が発生したのだ。
今回、筆者がひそかに期待していたのは、120戦未勝利のバリッケロの初優勝だった。だが、それはここ12戦ポール奪取者優勝なしのジンクスとともに、シューマッハが打ち砕いて行ったのだった。
2.レース・レビュー
* * * スタート 〜 大きく分かれた明暗 * * *
さて、そのレースレビューに移ろう。
クルサードと激しいポール争いを最後の最後で見事に制したのはシューマッハだった。もはやフェラーリのマシンはマクラーレンと同等以上の素晴らしい実力を備えてしまった。
逆に、ディフェンディングチャンピオン、ハッキネンはどうにもタイムが伸びず、バリッケロにも後れをとり、4番手だった。
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