Vol.21: F-1 Designers' Battle (1)
(written on 4th.Feb.2001, make HTML on 11th.Mar.2001)
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 今回から3回の"Unchiku-Lite"では、'99年〜2000年シーズンにかけての、F-1マシンデザイナーに関する人間模様に着目したテクニカル・ドキュメンタリー・ストーリーを展開します。F-1がドライバー達だけの戦いだけではなく、テクニカルスタッフ達の戦いでもあることを知っていただきたいと思います。
 まあ、かなりマニアックな内容ですが、どうかじっくりとお読みになってくださると幸いです。


1.スチュワートSF03に関わった3つの才能

Stewart SF03
スチュワート・フォード SF03

 '99年開幕戦オーストラリアGP。
 真っ白でコンパクトな美しいマシンが、スターティング・グリッドについていた。そのマシンの名はスチュワートSF03。スチュワート参戦以来、一貫してマシンデザインを手掛けてきた、アラン・ジェンキンスとエグボール・ハミディのデザインチームによる作品である

Alan Jenkins Egbal Hamidi
アラン・ジェンキンス(左)と
エグボール・ハミディ

Gary Anderson
ゲーリー・アンダーソン

 不調であった前シーズンのSF02とは打って変わって、このSF03はフリー走行、予選と大活躍し、ルーベンス・バリッケロがいきなり5番グリッドを獲得する素晴らしい速さを披露していた。だがその時、その生みの親であるジェンキンスとハミディは、既にチームを去っていた。


 チームは前年度末に、長くジョーダンチームを支えてきたゲーリー・アンダーソンをチーフデザイナーとして迎え入れた。当初は、ジェンキンスがテクニカル・ディレクターとして技術陣全体の指揮をとり、アンダーソンとハミディがそのもとで共に仕事をするはずであった。
 だが、アンダーソンはジョーダン時代からマシンに対して独特の美学を持っていることで知られていた。また、ある意味完璧主義なところがあり、マシン製作に関して何もかも自分が把握してなければ気が済まない、少し強引なところのある人物でもあった。

 結局、ジェンキンスとハミディはこのアンダーソンとの折り合いがつかなくなって、チームを出る事になってしまったのだ(と言われている)。


 夏になって、ジェンキンスがプロストに、ハミディがアロウズにと、それぞれ新天地を見つけた頃には、彼らの置き土産であるSF03はさらに目覚ましい活躍を見せていた。少し前のブラジルでは地元バリッケロが堂々のトップランを見せつけたし、フランスではポールポジション。さらに、大混乱のヨーロッパGPでは見事な1-3フィニッシュを果たし、コンストラクターズランキング4位という素晴らしい結果をもたらしていたのである。

 世間的には、このSF03の活躍は、生みの親であるジェンキンスとハミディのおかげではなく、育ての親たるアンダーソンの手腕によるものとされた。
 確かに当時、ジョーダンの一連のマシンの活躍から、一番評価が高かったのはアンダーソンであったことは間違いない。また、シーズン途中に彼が加えた変更が、的確に速さに結びついていたことも。
 しかしながらそれでも、SF03に意欲的な機構を盛り込んだジェンキンスとハミディにとっては歯痒いことこの上ない事態であったろう。

 彼らがSF03の功労者であったことを証明するためには、新天地での活躍、これ以外なかったのだ。それは、彼らF-1の技術面に関わる男達のプライドを賭けた仁義なき戦いの幕開けだったと言って良かろう。


2.プロストとアロウズ、もう一つの師弟対決

 新天地として、プロストとアロウズに袂を分かったジェンキンスとハミディの二人にとっては、お互い上司と部下として働いた者どうしの対決も意味する。


 だが興味深いことに、プロストとアロウズの対決は、もう一つの師弟対決も内包していた。

 ハミディが加入したアロウズは'99年当時、かつてマクラーレンとフェラーリで名声を馳せたジョン・バーナードがデザインしたマシンの改良版A20を使っていた。

John Bernard
ジョン・バーナード

 アロウズの敏腕リーダー、トム・ウォーキンショーが'97年に獲得したバーナードは、フェラーリ在籍時代からの忠実な部下達を連れてアロウズに参加した。その中に、かつてティレルのテクニカル・ディレクターも務めた経験を持つマイク・コフランもいた。
 非常に志の高い完璧主義を持つバーナードは、アロウズの資金力をほとんど無視した(一説には3倍とも言われる)投資を行い、'98年用のA19を作り上げた。

 だが、結局搭載できたエンジンが貧弱なハートエンジンだったことから大した戦績を挙げられず、A19に注いだバーナードの情熱は、ただただアロウズの予算をひっ迫しただけだった。バーナードは結局、チームをわずか1年足らずで離れた。


 バーナードに代わってチームのテクニカルディレクターに就いたのは、バーナードとは行動をともにしなかったコフランであった。

Mike Coghran
マイク・コフラン

 コフランはもともとバーナードのスタッフであったが、彼が'91年にベネトンを離れたのを機にティレルに移籍し、その後、テクニカルディレクターに就いた。そして処女作として、片山右京もドライブしたティレルの'93年のマシン、021を作り上げた。
 021はF-1マシンにとって好ましくないロール(車がコーナリング時の遠心力で外側に傾くこと)を徹底的に抑えるのと同時に、軽量化をも狙ったアイディアが投入されていた。当時フロント側で多く採用されていたシングルダンパーをリアにも採用したのである。

 だが、021の操縦性は最悪で、コフランのアイディアは「無謀」との烙印を押された。結局コフランは失意の中で、再びフェラーリに加入したバーナードの配下に戻った。
 それ以降は再び腹心の部下としてバーナードと行動を共にしてきたコフランであったが、今回はついに袂を分かった。コフランは再び、自立を目指したとも言える。


 そして、アロウズを離れたバーナードが次に選んだのが、かつてマクラーレンで栄光を分かち合ったプロストのチームであったのだ。
 彼は、アロウズでの苦い経験をもとに、今度はマシン開発に自ら深く関わるのではなく、技術コンサルタントとしてプロストの技術陣をバックから支援する役割を受け持つことになった。

 そこに、ジェンキンスがテクニカル・ディレクターとして招かれた。
 奇しくも、ジェンキンスもバーナードがマクラーレンに在籍していたころの部下であり、彼を大いに尊敬していることで知られていた。


3.プライドとプライドがぶつかりあう、中堅3チームの戦い

 整理しよう。舞台は'99年である。

 ゲーリー・アンダーソンと折り合いをつけられずにスチュワートを離れたのが、アラン・ジェンキンスとエグボール・ハミディ。この二人は、ジェンキンスが上司でハミディは部下の関係であった。
 そのハミディが加入したのがアロウズ。そこで技術部門のリーダーを務めていたのが、ティレルで大失敗作を作ったマイク・コフランである。

 一方、そのコフランが長く腹心の部下として仕えていたのが、かつてマクラーレン時代に栄華を極めたジョン・バーナードである。バーナードは現在マクラーレン時代の同胞であるプロストのチームの技術コンサルタントとしてバックアップをしている。
 そして、そのプロストチームのテクニカルディレクターとして、アラン・ジェンキンスが加入してきた。ジェンキンスもまた、かつてバーナードの部下として働いたことのある人物である。

3 teams

 このように、中堅3チームの技術部門には、非常に濃密な人間関係が存在していたことは容易に理解できたであろう。
 そして彼らは、それぞれが所属するチームの2000年シーズンのために、新しいマシンの開発に入っていく。3チームのマシンの戦いは、ドライバーのみのものではなく、複雑に絡まりあった彼らテクニカルスタッフのプライドとプライドの戦いでもあるのだ!

 次回は、各チームごとの2000年に向けた動きを追っていく形式となる。

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