Extra Notes: Is Williams Team Guilty
- 1994 Round.3 San-Marino GP -

(written on 9th.May.1998)

 先日、このページを見て下さったKさんという方からメールをいただきました。
 非常にセナのことが好きでらっしゃっることが、ひしひしと伝わってくる嬉しいメールだったのですが、一つだけ、気になる事がありました。

「事故原因がウイリアムズにあるのが明白になればアドリアン・ニューウェイは罪を被って服役するべきだと思います。」

 う〜む....。
 Kさんのセナを失った悲しみは、本当に僕も共感できます。「ウィリアムズFW16がセナの命を奪ってしまった」という気持ちも。

 でも、ウィリアムズチームを罰する事は、僕はできないと思うんです。
 これについて、僭越ながら僕の意見を書かせて下さいね。


 レースというのは、マシンと人の極限のスピードを求めるものです。
 そしてセナは誰よりもその欲求が強かったドライバーでした。さらに、それをチームにも強く要求するドライバーでしたし、ウィリアムズチームも、それに良く応える仕事をしていたと思います。

 しかし、極限を求めるという事は、安全性を削る事でもあると思うのです。
 例えばエンジンなんかだと、ある回転数まではこれまでの部品でも余裕でレースを走りきれるだけの強度を保てていたと。
 ところが、そこからたった数百回転上乗せしただけで、まったく振動のしかたが変わって、これまでの部品では全く強度が足りなくなってしまった、という話があります。
 要するに何が言いたいかというと、F-1のスピードの世界とは、ほんの少しの変化であっても、取り返しのつかない結果を招くような恐ろしい世界だという事です。

 しかし、レースというのは、その壁を破らなければ勝てないんです。だって、誰もが極限のスピードを求めて続けているんですから。
 スピードを落とせば危険性は大きく減る。でもそれではレースに勝てない。
 危険性はグッと高まるが、速くなるかもしれない。ライバルより一歩前へ行けるかもしれない。

 セナはどちらを選ぶドライバーだったでしょう?

 間違いなく後者ですよね?そして、当然チームに対してもそれを望んだでしょう。これはレースで勝つために必要な事なんです。

Williams FW16

 ウィリアムズチームが作り上げたFW16は、結局のところは低速コーナーなどに難があったりして、完全な成功作だとは言えませんでした。
 しかし、随所にちりばめられた斬新な機構を見ると、セナの要求に応えて極限を追求した、文字どおり「究極のマシン」だったと、僕は思うのです。
 そして、あのマシンがセナの最期のマシンとなったことに、ある種の感慨すらもおぼえてしまうのです。
 今、セナはウィリアムズチームを恨んだりなんかはしていないと思えるのです。


 では、あの事故の原因がウィリアムズのマシンだったとして、それはチームの過失になるのでしょうか?

 僕はこう、思います。
 極限の速さを求めるのがF-1チームの仕事なのに、それを否定する事は、レース自体を否定する事にならないでしょうか。

 セナはレースを愛していました。
 そして、そのセナの愛したレースを否定するような決定は、僕はするべきではないと考えているんです。

 ...すごく残酷かもしれないけど、これがレースの運命(さだめ)なのだと思います。
 どんなにレギュレーションで安全を追求しても、レースがレースである限り、残念ながらこれからも死亡事故は発生すると思います。

 そして、セナは、誰のせいでもない、レースの神様の導きによって召されたのだと...。

Back to "Memories of Senna"

Back to "The Legend of Senna"