Vol.31 : "PAST MASTERS" vol.2
Vol.31
: High Lights of Past "U-N-C-H-I-K-U"
(written on 28.Nov.1998)
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Chapter5 : The End of Ventury-Car (vol.20 - vol.24)

 '79年から'80年にかけて、ウィングを必要としないことを目標とした「第二世代ベンチュリーカー」が失敗に終わり、堅実なベンチュリーカーを作ったフェラーリやリジェ、ウィリアムズが大成功した事で、F-1のベンチュリー革命も、ようやく落ち着いてきました。

 しかし、安定した空力性能を実現させるため、サスペンションはガチガチになっていき、ドライバーへの負担も増えていました。

 また、ベンチュリー空間を外気から遮断するためのスカートをスプリングによって常に地面に密着させていたベンチュリーカーは、コースの鋪装へ与えるダメージが大きいことが問題とされました。

 さらに、スカートがもし外れてしまって急激にダウンフォースが減ってしまった時の安全を保証するものは何もありませんでした。

 そして悲劇が訪れます。'80年8月。アルファロメオのマシンをテスト中だったパトリック・デュパイエが、スカートの破損が原因で大クラッシュし死亡してしまったのです。

 そこで'81年、F-1のレギュレーションを取り仕切るFISA(現FIA)は急遽、マシンの車高を6cm以上とし、可動するスカートを禁止とした、事実上ベンチュリーカーの禁止規則を施行したのです。


'81年チャンピオンマシンとなった
ブラバムBT49C

 ところが、ブラバムの鬼才デザイナー、ゴードン・マーレイは、油圧によって走行時のみ車高を従来の低さに戻すシステムを開発し、このレギュレーションを事実上無効化させてしまったのです。

 他のチームもこぞってこのシステムを模倣し、結局一旦は削がれたはずのベンチュリーによるダウンフォースの大部分を取り戻す事になってしまったのです。

 マーレイのような「抜け道」を発見する者がいた一方で、根本から全く新しい技術によってこの規則に打ち勝とうとした者もいました。...そう。またしてもロータスのコーリン・チャップマンは革命児を用意してきたのです。


ツインシャシー・ロータス88

 その名は「ツイン・シャシー」ロータス88。

 このマシンは一般のシャシー(第一シャシー)のサスペンションアームの上に、ダウンフォースを発生する空力シャシー(第二シャシー)を載せたものでした。つまり、このマシンは走行に必要なメカニカルなシャシーと、空力を担当するシャシーとに分けてしまったマシンだったわけです。

 こんな書き方をすると88がキワモノマシンだと思われるかもしれませんが、これは画期的なことでした。

 先程も申しましたように、この時代のマシンのサスペンションは空力重視でガチガチになり、本来の衝撃吸収という役割をほとんど果たしていませんでした。

 ところが、このマシンで発生したダウンフォースは、直接タイヤにかかるようなものですから、第一シャシーのサスペンションは空力に関係なく、本来の働きに戻った柔らかいセッティングにすることができたのです!!

 これは'81年の可動スカート禁止規則に打ち勝つどころか、ベンチュリーの限界を打ち破る事のできる素晴らしい技術でした。「第三世代ベンチュリーカー」と呼んでも良いでしょう。

 しかし、このロータス88、デビュー戦のフリー走行を走った時点で他チームの抗議にあい、結局そのまま実戦を走らずに姿を消す事になります。「空力付加物は可動してはならない」というレギュレーションによって車検を不通過となってしまったのです。

 しかし、チャップマンは、「F-1は素晴らしい技術開発の場」であることを信じて出走を出願し続けましたが、やはり無駄でした。

 こうして再びグランプリの主役になるはずだったロータスの「第三世代」ベンチュリーカーは実戦を走る事なく去って行ったのです。

 さて、可動スカート禁止以降も、ベンチュリーカーの性能の向上は留まるところを知りませんでした。

 またこの頃時を同じくして、台頭してきた勢力があります。それは、ルノーが先鞭をつけた、ターボエンジンを搭載したチームです。そしてそれが、大陸の大メーカー系のチームと、イギリスのコンストラクターチームの間に亀裂を走らせ、対立構造を明確にすることになってきていました。

 こうした混迷した背景を表すかのように、'82年シーズンの戦いも非常に緊迫した接戦となります。「F-1史上に残る好シーズンになるのか...?」



 ...とその矢先、悲劇が訪れます。第5戦ベルギーGPの予選中、フェラーリの英雄ジル・ヴィルヌーブが、スロー走行していたマーチのヨッヘン・マスに乗り上げ、大クラッシュし、死亡してしまったのです。

 悲劇はここに終わりませんでした。

 続いて第8戦のカナダGPでは、ポールシッターのピローニ(フェラーリ)がスタートでエンジンストール。これにオゼッラのリカルド・パレッティが追突し、炎上。ピローニは脱出して、全くの無傷だったものの、マシンに取り残されたパレッティが死亡してしまったのです。

 さらには、そのピローニにまで、魔の手が忍び寄ります。

 第12戦ドイツGPの豪雨の予選で、既にチャンピオンポイントのトップに躍り出ていたピローニがトップタイムをたたき出した直後に大クラッシュ。両足の複雑骨折で引退を余儀無くされてしまったのです。

 これらの事故は直接、ベンチュリーカーが原因だとは言えないものでしたが、それがスピードと安全性のバランスを大きく崩している要因であることは明白でした。

 そのためFISAは'82年9月、ピローニの事故の直後に、翌年度からのベンチュリカーの急遽禁止を決定したのです。

Chapter6 : Flat Bottom Battle (vol.25 - vol.29)

 '82年に起きた悲劇。その結果、FISAは急遽翌'83年から、マシンのスピードを落とすため、レギュレーションの大幅変更を決断しました。

 その大きな柱が「フラットボトム規制」でした。

 これは「前輪の後端から後輪の前端までの部分の車体のボトム部分は平らでなければならない」という規則でした。

 多くのチームは、フラットボトム規制によってベンチュリーは死んだと考えました。ベンチュリーカー時代のような長いボトムだと、かえって大きな抵抗となってしまうであろう。ならばいっそ、マシンの底をなるべく短くしてしまおう。

 結果として、'83年のグリッドに並んだマシンの多くは、非常に短いサイドポンツーンを持っていました。

 しかし、シーズンをリードしたのは、ターボエンジンの補記類によってサイドポンツーンを長くせざるを得なかったルノーやフェラーリでした。もはや、ターボエンジンの強大なパワーは勝利に必要不可欠なものとなっていたわけです。

 ところが、ドライバーズチャンピオンを獲得したのは両チームのドライバーではなく、ブラバムBMWのピケでした。

'83年チャンピオンマシン
ブラバムBT52
 ゴードン・マーレイ製作のブラバムBT52は、コンパクトなBMW直4ターボエンジン、それに、前年度から彼らが導入していたセンセーショナルな燃料途中給油によって非常に小さくされた燃料タンクのメリットを大いに活かしたコンパクトなマシンとなっていました。
 さらに、サイドポンツーンは極限まで短く設定され、上から見ると矢印のようなフォルムだったため、「アロウシェイプ」と呼ばれました。

 BMWエンジンはこの年のうちに大幅なパワーアップを遂げました。それは、シーズン途中から投入された特殊燃料による影響が大きかったのです。

 このように、ブラバムのマシンは、決してエンジンだけ、シャシーだけではなく、ドライバーまでも含めた全体のパッケージが優れていたのです。この事実はこれからの時代を暗示するものでもありました。


ロータス94Tのディフューザ
 さて、'83年第9戦には、ロータスがルノーターボエンジンを搭載したニューマシン、ロータス94Tを投入してきました。このマシンの最後部の底には、大きく跳ね上げられた整流板のようなものが取り付けられていたのです。

 これは「ディフューザ」と呼ばれる事になるデバイスです。

 これは、マシン底面の後端に設けられた緩やかな跳ね上げによって、底面を流れてきた空気を拡散させます。すると、この部分の空気が薄くなって負圧が発生し、フラットボトム部分の空気がこの負圧部分に引っ張られて加速します。

 すると結局フラットボトム部分の下全体に負圧が発生することになります。これはまさ にベンチュリー効果です。

 このように、フラットボトム規制においても、完全にベンチュリー効果が失われたわけではないことが明らかになったのです。

 一方、マクラーレンのジョン・バーナードは'84年にむけて、虎視眈々とマシンの準備を進めていました。待望のTAGポルシェエンジンが手に入るからです。

 バーナードは前年度からディフューザを導入し、さらにそれを活かす「コークボトル」というスタイルを採り入れていました。

 これはサイドポンツーンをリヤタイヤの前でウェストラインのようにくびれさせ、サイドポンツーン横を流れてきた流速の高い空気をディフューザの上に導いてディフューザの空気を引き抜こうという実に秀逸なアイディアでした。


マクラーレンMP4/2

 これは'84年型のMP4/2において、さらに洗練された形状にしてきました。しかし、MP4/2の素晴らしいところはそこに留まりません。

 バーナードはTAGポルシェに対して、ターボのタービンに至る細かい部分にまで事細かに要求を突きつけ、思い通りのエンジンを作らせたのです。

 つまりバーナードは、それまでのマシン開発の、既存のエンジンにあわせてシャシーを作るというスタイルを根底から覆し、マシン全体をひとつにデザインしようとしたわけです。

 結果、MP4/2は他のマシンとは明らかにレべルを異とする素晴らしい出来ばえのマシンとなったのです。

 そしてグランプリではプロスト&ラウダのコンビで完全に他チームを圧倒し、16戦12勝という圧倒的な強さでチャンピオンを獲得したのです。

 というわけで、二回にわたり、駆け足で"U-N-C-H-I-K-U"を振り返ってきましたが、いかがだったでしょうか?

 いやー...ほんとにロータス88は惜しいですね!(まだ言ってる ヾ(--;)

 それはともかく、本当にF-1マシン開発が熱いものであることが少しでもおわかりいただけたのではないでしょうか?

 無味乾燥に思えるマシンだって、結局、人間が開発するものです。素晴らしいマシンにはそれを開発した人の顔が写るものだと思っています。

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