Vol.23 : "Free for All" '82 Season
(written on 21.Mar.1998, corrected on 10.Oct.1998)
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 今回は'82年シーズンがテーマですが、その前に、この頃のベンチュリーカー(*注1)開発の状況についてまとめながら話を進めていきましょうか。

 ますます過熱するベンチュリーカー開発。最高のダウンフォースを得るために最適なベンチュリーの形状が模索されるとともに、ポーパシング(第十五回参照)を抑えるべく、サスペンションは本来の働きを失うほどにガチガチに硬くなっていきました。

 また、'80年8月に起きたスライディングスカート(*注2)の破損が原因と思われる事故でアルファロメオのベテラン、パトリック・ドゥパイエが死亡した事から、'81年からスライディングスカートは禁止されました。

 しかしそれも、ベンチュリーを構成しているサイドポンツーン(*注3)を若干柔らかい構造にする事で、敢えてポンツーンをたわませて、地面への密着度を増したりとか(昨年の日本GPでのフェラーリのフロントウィングと同様の考え方です)、固定スカートにゴムのような柔らかい素材を使う事で路面と密着させて同様の効果を得られるようになっていました。
 なんと、この部分の素材をまるでタイヤのように何種類も用意し、路面温度やコースの状況などに応じてセッティングするということまで行われていたそうです。

 ベンチュリーカーの技術が煮詰まっていく一方で、デビュー当初は「ドン・キホーテ」的に扱われていたルノーのターボエンジン(第十八回参照)はやがて力をつけ、フェラーリや、BMW、プライベーターのハートもそれに追従。長年F-1を支えてきたフォード・コスワースのDFVエンジンはもはや劣勢に回っていました。

 しかし、こうしたターボエンジンの開発は大自動車メーカーでなければ一線級のものに仕上げるのは無理であり、それを手に入れられるのはフェラーリ、ルノーら、伝統ある大陸側、FISA(*注4)系のチームでした。

 一方で、イギリス側、FOCA(*注5)系の比較的新興のチームは依然としてDFVエンジンを使用するしかありませんでした。
 ここに、FISA系チーム対FOCA系チームという対立構造が浮きぼりになっていったのです。

 こうした対立構造の中で、相手を出し抜くため、またはその相手を道連れにするための政治的な圧力として、さまざまな裏技的技術が持ち込まれました。
 今度はそうした技術について見ていく事にしましょう。

 パワーで劣るイギリス系のチームは、ベンチュリーの性能を上げたり、マシンを規則ギリギリにまで軽量化したりして、敏捷性やバランスの良さで対抗しようとしました。しかし、それでは飽き足らず、ついには裏技をひねり出してしまいます。それが「水タンク」です。

 これはどういうシステムかというと、「表向きには」通常エアダクトから導かれた空気を当てて冷やしていたブレーキを、タンクからホースで導いた水によって強引に冷やしてやって、さらにブレーキ性能を上げよう、というシステムでした。

 しかし、実際には走行中、このシステムが使われる事はありませんでした。なぜなら、この10リットル近い水タンクの水はスタート直後に一挙に排出されていたからです。
 つまり、水タンクに満杯に水を入れた時に最低車重規定を超えるようにしておいて、実際の走行中は水を排出し、規定よりも10kg近く軽い車重で走っていたというわけです。
 さらに、この時代は「ゴール後の計量では、走行のために必要な通常の冷却水及び潤滑油ならば補給しても良い」という規則だったため、水タンクを使用するチームは堂々と10リットル近い水をマシンに注ぎ込んで計量をパスしていたのです。

 ブラバムなどはもっとすごい事をやっていたらしいですよ。
 スタートの時点で既に規定重量より軽い車重で走り、ゴール後、わざとコース途中でマシンを止め、ドライバーはシートを持って降り、その後チームのクルーがマシンを取りに行く時には2〜30kgという重さのシートを持っていって取り付け、計量をパスしていたという話です。

 さて、'82年第2戦ブラジルGPは、水タンクを搭載したブラバムBT49Cに乗るネルソン・ピケとウィリアムズFW07Cに乗るケケ・ロズベルグが1-2フィニッシュに終わりました。
 そして即座にFISA系チームのフェラーリやルノーがこれに抗議します。

 しかし、FISAの態度は煮え切らず、結論の出ないままに第3戦アメリカ西GPを迎えます。


フェラーリ126C2の
二枚羽リヤウィング
 ところが、このアメリカ西GPに、今度はフェラーリは奇妙なリヤウィングを持ち込みました。
 なんと、リアウィングが二つ、左右に互い違いに取り付けられていたのです。

 当時のレギュレーションには「リアアクセル(後輪車軸)より後方には幅110cmを超える構造を設けてはならない」とありました。
 その規則からすればフェラーリのウィングは明らかにレギュレーション違反です。しかしフェラーリは「110cm幅のウィングを2枚互い違いに取り付ければ違反ではないだろう」と言い張ったのです。

 こんな主張は誰が聞いても強引でした。しかし、そんなことはフェラーリ側もわかっていたのです。つまり、フェラーリはそのリヤウィングの効果自体よりも、政治的な効果を狙ったのです。
 『水タンクのように強引な手法が許されるのならこのリヤウィングも許されるべきである。これを禁止するのなら水タンクも禁止するべきである』と。

 結局、このレースで3位に入ったフェラーリのジル・ヴィルヌーブは失格裁定を受けました。しかしその後、ブラジルGPでの水タンクの2台も失格裁定となったのでした。

 その他にもこの年には車両規則に抵触して失格処分を下されるケースが数多くありました。

 さて、車両規則を巡るFISA側チームとFOCA側チームの対立は激化し、第4戦サンマリノGPではFOCA系チームがボイコットをするという自体にまで発展しました。

 さらに、政治的駆け引きは、FISA系チームとFOCA系チーム間、コンストラクターズとFISA間に留まらず、ドライバー連盟(GPDA)とFISA間にも及びました。
 前年度から安全性やドライバーの地位の低さにGPDAが反発していたのですが、ついには'82年の開幕戦南アフリカGPでストを起こしてしまったのです。
 このストにより金曜日の予選一回目は中止。

 しかし、結局、強権を行使したFISAに、GPDA側は敗北し、ストは失敗に終わりました。とは言え、このストをきっかけに、ニキ・ラウダを中心とした運動でドライバーの地位は向上し、ギャラのほうもうなぎ上りに高騰していったということです。

 このように、'82年は政治的な匂いがプンプンと漂うシーズンでした。それは、それまでの大らかな雰囲気から、現在のようなプロフェッショナルなスポーツへの脱皮を意味していたと言えるでしょう。
 それがF-1にとって良い事なのか、悪い事なのか。ともかくも、'82年シーズンはF-1にとっての大きな転換期であったと言えます。

 しかし、まだ今回は'82年シーズンの大きな出来事の半分も触れていないと言えます。というわけで、次回は'82年シーズンの主役であったフェラーリ、そして起こってしまった悲劇についてです。

*注1:


ウィングの周りの空気の流れ


ベンチュリーの原理

 ウィングはその上面と下面に空気が流れ、飛行機の場合は上面、F-1の場合は下面の空気の流速を上げて負圧を作り、その方向に向けた力(揚力/ダウンフォース)を発生させるものである。

 それに対し、ベンチュリーは凸状の構造物が向かい合ったもので、その間を空気が通り抜けることで流速が上がり、そこに負圧が発生するものであり、ベンチュリー・カーの場合はその片方の凸状構造は路面になっているわけである(この場合、地面とマシンの間に力が発生するのでその力をグランドエフェクトとも呼ぶ)。

 ベンチュリーの場合は負圧になる部分のみが存在すれば良く、ウィングのように上面/下面の空気を考慮する必要がない。

*注2:

 ベンチュリーはそこを通る空気を外気と遮断してこそ効果を発揮する。そのため、ベンチュリーカーの側面には地面スレスレまで遮壁=スカートが覆うことになった。また、路面の凹凸に対応するために'80年まではバネでスカートを地面に押し付ける可動式スカートが広く用いられていた。

*注3:

 サイドポンツーンとは車体側面の箱のような部分のことであり、現在ではラジエターや、車載コンピュータなどを収め、側面衝突時の衝撃吸収の役目もある。もともとポンツーンとは水上飛行機のフロートのことを指す。

*注4:

 FISAとはFederation Internationaledu Sport Autommobile=国際自動車スポーツ連盟の略であり、世界中のモータースポーツを統括していた。現在では上位団体であるFIA=国際自動車連盟に吸収され、存在しない。
 この時代は大メーカーであるルノーやフェラーリの肩ばかりを持つ、と言われていた。

*注5:

 FOCAとはFormula-One Constructors Association=F1製造者協会の略であり、イギリスのコンストラクターズを中心に結成された。
 今ではF-1の開催権や放映権などを牛耳っており、大きな力を持っている。
 結成当初から、当時ブラバムのオーナーだったバーニー・エクレストンが取り仕切っている。

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